男の行く先には、なにもありませんでした。
ただまっくらな闇が広がっているだけでした。
地面がどこまで続いているのかもわからずに、
ただ歩いてゆきました。
目の前になにもないので、
男はたくさんのことを考えました。
昔、食べた砂糖菓子の味、
昔、見た永遠の空の色、
昔、あびた雨の温度、
昔、愛した女の涙、
昔のことを、男はたくさん考えました。
男は、闇のさきにそれらをさがそうとしましたが、
あいかわらず、何も見えないのでした。
思えばいつから、自分は歩いていたのだろう。
思えばいつから、ひとりだったのだろう。
男は、闇のさきに答えをさがそうとしましたが、
あいかわらず、何も判らないのでした。
闇の中を歩いていると、だんだん自分の姿がわからなくなってきます。
自分の姿を確かめようと、男は自分の胸をつかみました。
するとどうでしょう、ぬるりとしたものが手に触れました。
奇妙な液体をなめると、なまぐさい血の味がします。
男は、自分の腕をつかみました。
やはり、ぬるりとした感触が伝わります。
男は腹を、足を、背中をさぐりましたが、
やはり同じ手触りをおぼえるのでした。
男はようやく思い出しました。
「おれは血など流していない。
 おれには何も見えない」
そうつぶやいた日から、男の世界は暗闇になったのです。
暗闇を歩いていると、自分の姿がわからなくなります。
けれど自分の姿を確かめるために、
男は自分の血にふれなければならないのでした。
それは、まぎれもない、男の今の姿なのでした。
男は涙を流しました。
それは、昔見た女の涙に似ていました。
「これは、おれだ」
そう言って男が、自分の身体を抱きしめた時、
太陽の光があたりを照らしました。

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