さびれた街のかたすみにその店はあった。
くねくねと曲がる、蛇のような小道をぬけて、
僕はその扉を見つけた。
ただ通り過ぎればわからない。
重い扉がとざされているだけで、
屋根の下にはあかりさえもない。
僕は扉をあけて階段をのぼる。
さらなる扉を静かにあけた。

男は時を止めていた。
真っ黒なシルクハット、タキシード。
その姿も、いつの時代のものなのか。
古い木の机に木の椅子に。
右手に持ったグラスの中には、鼻をつんざくアルコール。
左手にはステッキを。

長く黒い棒をかかげた男を、僕はあわててくいとめた。
「だめだよ、そんなことをしたら、
 誰もあなたをおぼえていられなくなる」
男は横に首をふる。
それでいいのだと首をふる。
すべての人の記憶から、自分の姿を消すように、
彼は黒いステッキをふる。

僕はそれを片手で受けとめた。
彼の手にしたグラスの中に、鋭い刃がきらりと光った。
「そのおさけを飲んではいけない。
 そのなかには、小さな闇が隠れている」
僕はグラスを奪い取り、指をつっこんでそれを取り出した。
果たして指につままれたのは、甘い香りのする赤い花。
魅惑の世界にひきずりこむ、
喜びよりも悲しみにひたされる恍惚。

男は静かに泣いていた。
泣いていたその顔が、僕と同じ顔だったので、
僕はびっくりして口をあけた。
そのひょうしに、赤い花が口の中にすべりこむ。
ごくりと飲み込んだ僕は、あわててせきこんだけど、
ただ、苦い花が喉を通っていった。

男は言った。
「その味を忘れてはいけない。
 その花はただ、ひどく苦いだけのつまらない花であることを。
 どうか君が、私にたどりつく日まで」
男は泣いて礼を言うと、ステッキを置いて立ち去った。

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