「お待ちしておりました」
通りすがりの家の前で、女が頭をさげた。
この家に立ち寄るおぼえのない僕は、人違いだろうと通り過ぎた。
けれどどうしたことか、歩む先にはまた、
その女と家が待ちかまえていた。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
僕はしかたなく中へ入った。
そこは、古びた家に似合わない、きらびやかな部屋だった。
テーブルの上にはたくさんのごちそう、
夜の闇を映し出す窓には、
きらきらと光るカーテンがかけられている。
豪奢なシャンデリアが頭上にあり、
部屋のかたすみで、女性がピアノをひいている。
優しいメロディだ。

僕は椅子にすわり、ごちそうを食べた。
とてもなつかしい味がして、なぜか涙が出た。
すべてのごちそうをたいらげて、
僕はピアノの音に身をまかせた。
とても懐かしい音色がして、また僕は涙が出た。
窓の外では月が輝いている。
その月にも懐かしさをおぼえて、涙を流す。
どうしてこんなにも、僕は泣いてばかりいるのだろう。
どうしてこんなになつかしいのだろう。
そして僕はふと思った。
そういえば、僕はどこから来たのだろう。
もしかすると、ここが僕の家だったのではないだろうか。

僕は、入り口で僕に声をかけた女にたずねた。
「もしや、ここは僕の家ではないだろうか」
すると女は答えた。
「いいえ、ここはあなたの家ではありません。
 ここは、あなたがたまたま立ち寄った、どこでもない家です」
「けれど」
「さあ、おやすみください」
女は二階へと僕を導いた。
二階は小さな部屋で、小さなベッドがポツンとあった。
ふとんのやわらかさに、僕はまた泣きたくなったが、
疲れ果てていたのであっというまに眠ってしまった。

翌朝、僕は目覚めて下におりた。
けれどごちそうも、シャンデリアも、ピアノもなかった。
簡素な部屋だった。
朝日がさしたからだと僕はわかった。
夜は終わったのだ。

家を出るとき、女が見送ってくれた。
「さようなら」
僕は女の顔に、はじめて気がついた。
「きみは、僕が愛していた女だ」
「いいえ、ちがいます」
女は顔をあげた。
けれどまちがいない。僕がかつて愛した女だった。
「私は、あなたには愛されませんでした」
女は静かに涙を流した。
「あなたが愛したのはあの部屋、あの音楽、あの料理、
 そしてあの眠り」
女は涙を流しながらほほえんだ。
「あなたが愛したのは、あの時間」
懐かしい家がうすれてゆく。ゆっくりと消えてゆく。
「さよなら。私はあなたを愛していた」
やがて女の姿も消え、僕は街の中、一人立っていた。
僕の頬を本当の涙がつたい、消え去った家にひとこと告げた。
「いいや、僕はきみを愛していたんだ」
そして僕はふたたび歩きはじめた。

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アンダーロココ唄語「真昼の章」、終了です。
またいつか、
気が向いたときに「夕暮れの章」をやろうと思います。

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