アンダーロココ唄語:過ぎ去る宿
2002年6月5日「お待ちしておりました」
通りすがりの家の前で、女が頭をさげた。
この家に立ち寄るおぼえのない僕は、人違いだろうと通り過ぎた。
けれどどうしたことか、歩む先にはまた、
その女と家が待ちかまえていた。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
僕はしかたなく中へ入った。
そこは、古びた家に似合わない、きらびやかな部屋だった。
テーブルの上にはたくさんのごちそう、
夜の闇を映し出す窓には、
きらきらと光るカーテンがかけられている。
豪奢なシャンデリアが頭上にあり、
部屋のかたすみで、女性がピアノをひいている。
優しいメロディだ。
僕は椅子にすわり、ごちそうを食べた。
とてもなつかしい味がして、なぜか涙が出た。
すべてのごちそうをたいらげて、
僕はピアノの音に身をまかせた。
とても懐かしい音色がして、また僕は涙が出た。
窓の外では月が輝いている。
その月にも懐かしさをおぼえて、涙を流す。
どうしてこんなにも、僕は泣いてばかりいるのだろう。
どうしてこんなになつかしいのだろう。
そして僕はふと思った。
そういえば、僕はどこから来たのだろう。
もしかすると、ここが僕の家だったのではないだろうか。
僕は、入り口で僕に声をかけた女にたずねた。
「もしや、ここは僕の家ではないだろうか」
すると女は答えた。
「いいえ、ここはあなたの家ではありません。
ここは、あなたがたまたま立ち寄った、どこでもない家です」
「けれど」
「さあ、おやすみください」
女は二階へと僕を導いた。
二階は小さな部屋で、小さなベッドがポツンとあった。
ふとんのやわらかさに、僕はまた泣きたくなったが、
疲れ果てていたのであっというまに眠ってしまった。
翌朝、僕は目覚めて下におりた。
けれどごちそうも、シャンデリアも、ピアノもなかった。
簡素な部屋だった。
朝日がさしたからだと僕はわかった。
夜は終わったのだ。
家を出るとき、女が見送ってくれた。
「さようなら」
僕は女の顔に、はじめて気がついた。
「きみは、僕が愛していた女だ」
「いいえ、ちがいます」
女は顔をあげた。
けれどまちがいない。僕がかつて愛した女だった。
「私は、あなたには愛されませんでした」
女は静かに涙を流した。
「あなたが愛したのはあの部屋、あの音楽、あの料理、
そしてあの眠り」
女は涙を流しながらほほえんだ。
「あなたが愛したのは、あの時間」
懐かしい家がうすれてゆく。ゆっくりと消えてゆく。
「さよなら。私はあなたを愛していた」
やがて女の姿も消え、僕は街の中、一人立っていた。
僕の頬を本当の涙がつたい、消え去った家にひとこと告げた。
「いいや、僕はきみを愛していたんだ」
そして僕はふたたび歩きはじめた。
::::::::::::::::::::
アンダーロココ唄語「真昼の章」、終了です。
またいつか、
気が向いたときに「夕暮れの章」をやろうと思います。
通りすがりの家の前で、女が頭をさげた。
この家に立ち寄るおぼえのない僕は、人違いだろうと通り過ぎた。
けれどどうしたことか、歩む先にはまた、
その女と家が待ちかまえていた。
「お待ちしておりました。中へどうぞ」
僕はしかたなく中へ入った。
そこは、古びた家に似合わない、きらびやかな部屋だった。
テーブルの上にはたくさんのごちそう、
夜の闇を映し出す窓には、
きらきらと光るカーテンがかけられている。
豪奢なシャンデリアが頭上にあり、
部屋のかたすみで、女性がピアノをひいている。
優しいメロディだ。
僕は椅子にすわり、ごちそうを食べた。
とてもなつかしい味がして、なぜか涙が出た。
すべてのごちそうをたいらげて、
僕はピアノの音に身をまかせた。
とても懐かしい音色がして、また僕は涙が出た。
窓の外では月が輝いている。
その月にも懐かしさをおぼえて、涙を流す。
どうしてこんなにも、僕は泣いてばかりいるのだろう。
どうしてこんなになつかしいのだろう。
そして僕はふと思った。
そういえば、僕はどこから来たのだろう。
もしかすると、ここが僕の家だったのではないだろうか。
僕は、入り口で僕に声をかけた女にたずねた。
「もしや、ここは僕の家ではないだろうか」
すると女は答えた。
「いいえ、ここはあなたの家ではありません。
ここは、あなたがたまたま立ち寄った、どこでもない家です」
「けれど」
「さあ、おやすみください」
女は二階へと僕を導いた。
二階は小さな部屋で、小さなベッドがポツンとあった。
ふとんのやわらかさに、僕はまた泣きたくなったが、
疲れ果てていたのであっというまに眠ってしまった。
翌朝、僕は目覚めて下におりた。
けれどごちそうも、シャンデリアも、ピアノもなかった。
簡素な部屋だった。
朝日がさしたからだと僕はわかった。
夜は終わったのだ。
家を出るとき、女が見送ってくれた。
「さようなら」
僕は女の顔に、はじめて気がついた。
「きみは、僕が愛していた女だ」
「いいえ、ちがいます」
女は顔をあげた。
けれどまちがいない。僕がかつて愛した女だった。
「私は、あなたには愛されませんでした」
女は静かに涙を流した。
「あなたが愛したのはあの部屋、あの音楽、あの料理、
そしてあの眠り」
女は涙を流しながらほほえんだ。
「あなたが愛したのは、あの時間」
懐かしい家がうすれてゆく。ゆっくりと消えてゆく。
「さよなら。私はあなたを愛していた」
やがて女の姿も消え、僕は街の中、一人立っていた。
僕の頬を本当の涙がつたい、消え去った家にひとこと告げた。
「いいや、僕はきみを愛していたんだ」
そして僕はふたたび歩きはじめた。
::::::::::::::::::::
アンダーロココ唄語「真昼の章」、終了です。
またいつか、
気が向いたときに「夕暮れの章」をやろうと思います。
コメント